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交響楽第9番が後世の音楽家に与えた影響 なぜ日本では12月に交響楽第9番が演奏されるのか?

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ベートーベンの交響曲第9番

交響曲第9番ニ短調作品125は、ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。

 

古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えると同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道標となった記念碑的な大作である。

交響曲第9番 (ベートーヴェン) - Wikipedia

 

交響曲第9番(通称・第9)が偉大な作曲家たちに与えた影響

●ワーグナー

ワーグナーは「ベートーベンの第九をもって交響曲は終わった」と言ったそうだ。ワーグナーにそう言わせるくらいに「楽聖・ベートーベン」の存在はワーグナーにとって大きなものだったのだ。

 

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ワーグナー

 

●ワーグナーが第9を傑作にした

リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。『第九』も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。

 

ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命されたワーグナーは、念願の『第九』復活演奏に着手する。

 

ドレスデンでは、毎年復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。1846年、ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェンの『第九』を取り上げることを宣言した。猛反対の声が挙がったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得につとめるとともに、『第九』の楽譜に改訂を加えた。

 

彼は、「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」と考えたのである。そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。

 

徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習の時から満員となり、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。

 

これ以降、『第九』は「傑作」という評価を得るようになったのである。

 交響曲第9番 (ベートーヴェン) - Wikipediaより引用

 

●ブラームスのコンプレックス

ブラームスは交響曲第1番を21年もかけて作曲した。当時の大指揮者、ビューローはこの曲を「ベートーベンの交響曲第10番」と評価した。音楽評論家は、ブラームスはベートーベンが打ち立てた交響曲の本質を守り、絶対音楽性を継承したと指摘した。

 

ブラームスは、「ベートーベンが傑作の数々を残した交響曲や弦楽四重奏曲を書くにあたって、強いプレッシャーから逃れられなかった。ブラームスの作曲家の成熟のプロセスは、ベートーベン・コンプレックスを克服する道でもあった」という言葉を残した

 

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ブラームス

 

 

●ベートーベンが残した9曲の交響曲。この「9」という数字が後の作曲家のジンクスとなった

1、ブルックナー

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ブルックナーは交響曲第9番の作曲途中で亡くなった。

 

ブルックナーは1896年10月11日の午前まで第4楽章の作曲に携わった。だが、午後3時過ぎに息を引き取り、結局全曲を完成させることはできなかった。未完成に終わった第4楽章の自筆楽譜は、ソナタ形式の再現部の第3主題部でペンが止まっている。現在多くの研究者は、ブルックナーがスケッチの段階において楽章全体を作曲し終えていたと主張しているが、相当数の草稿が失われたままである。

交響曲第9番 (ブルックナー) - Wikipedia

 

 

2、マーラー

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マーラーは第10番を完成できないまま亡くなった。それくらいマーラーは「9」という数字を恐れた。「交響曲第9番を作曲すると死ぬのでは」と思うくらいに。そのため、第8番の後に番号を付けない声楽を伴う交響曲「大地の歌」を作曲した。

 

 

 第9が演奏されるのは日本だけらしい

年末の時期に、好んで「第九」を演奏するのは、日本だけだそうだ。

 

●日本での初演奏された場所は徳島県鳴門市にある板東俘虜(ふりょ)収容所

1824年にウィーンで初演された「第九」が日本で初めて鳴り響いたのは1918年6月1日、徳島県鳴門市にある板東俘虜(ふりょ)収容所でのことだった。

 

演奏を行ったのは第1次世界大戦で日本軍の捕虜となったドイツ兵たち。その背景には所長の松江豊寿による捕虜に対する人道的な処遇や、捕虜と地元民との心温まる交流があった。

 

ベートーヴェンが感銘を受けた詩人シラーによる、人間愛や世界平和を歌った『歓喜の歌』の詩に相応しい史実があったのだ。

 

●なぜ日本では年末に「第九」が演奏されるようになったのか?

日本で年末の「第九」が定着した由来は諸説ある。

有力なのは以下の2説。

 

(1)1943年12月、上野奏楽堂で行われた学徒壮行音楽会で「第九」が演奏されたことに由来する説

学徒出陣で卒業を12月に繰り上げた学生たちの壮行会。

そこで「第九」の『歓喜の歌』が演奏された。

戦後、生還した学生たち。

彼らが再び12月に「第九」を演奏した。

帰らぬ仲間たちを追悼のために。

そういう説がある。

 


(2)戦後の貧しかったオーケストラが年末のボーナス獲得のために「第九」を演奏したことに由来する説
戦後人気曲だった「第九」。

その曲を演奏すればお客が入る。

貧しかったオーケストラはお金のために、

コンサートで「第9」を演奏した。


おそらくは(1)と(2)の両方の理由と、「第九」が醸し出す崇高にして華麗な雰囲気が師走に日本人が寄せる感情に合致したことで「年末=第九」の図式が定着したと思われる。

 

「第9」という偉大な曲を残したベートーベンとは、どんな人物か? 

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生誕:1770年12月16日頃
出身地:神聖ローマ帝国
死没:1827年3月26日(満56歳没)

 

ドイツの作曲家。
J.S.バッハ等と並ぶ音楽史上極めて重要な作曲家。
作品は古典派音楽の集大成+ロマン派音楽の先駆けとされている。

 

40歳頃には全聾となった。また神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞した。

 

だが、そうした苦悩の中で『交響曲第9番』や『ミサ・ソレムニス』といった名曲を産み出した。

 

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。

 

ベートーベンの葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。この葬儀には、シューベルトも参列している。

 

参考:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン - Wikipedia

 

最後に「第9」をお楽しみください

 

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